存在の深みへ
ある日、中沢新一が自転車を買った。吉祥寺で買った「黄色いしゃれたママチャリ」は、中心に空(くう)を抱え込んだ、ぼくらの見知らぬ都市を駆け抜ける。その都市の名は東京である。自転車は地形の高低差を最も敏感に察知する移動手段だ。
一万年前、東京は今とはまったく別の顔をしていた。高台を残して海が浸入し、リアス式の海岸をつくっていたのだ。著者はその縄文時代の地図を手にママチャリをこぐ。走りながら感じ取ってゆくのは高低差だけではない。縄文人たちに「ミサキ」として崇められてきた聖地の清らかさや、死に接してきた闇の淀みを鋭敏に察知してゆく。そして無意識のその感覚によって、現在の東京の都市構造も大きく支配されていることを明らかにしてゆくのだ。
「縄文由来のこの地形は、独特の意味作用を発揮して、東京をけっして均質な空間にはしないできた。」
「ぼくたちには見えないところで行われている地球の営みに、もっと耳をそばだてていないといけない」
ぼくたちはいつからこのような生命の根源に触れるなまなましい感触を忘れてしまったのだろうか。いや、著者が明らかにしたのは、意識はせずともじつは今なお大地と交歓し、そのエクスタシーを感じながら都市を創り続けているぼくたちの姿だ。大地と意識の奥深く、自然と人間が不可分となる領域を舞台に、日夜創造の物語が繰り広げられている。それをぼくらは新たに「神話」と呼んでもいいだろう。
レヴィ=ストロースは地層への情熱によって大陸さえ超えゆく視座を得た。著者は近年『カイエ・ソバージュ』にみられる「対称性」というひとつの大きな思考を生きようとしている。地層を通し一万年の視座を得た対称性の思考は、どのような新しいぼくたちの『神話論理』を紡いでくれるのだろうか。
菊地信義による装幀は触感を刺激し、ぼくらの内部にも同じだけの深みがあることを喚起させてふさわしい。