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2005年07月22日

いつでもまもってばかりいてはいけない

『青森挽歌』のなかで詩人が、ここでも自我の解体の危機に
さらされているときに、賢治はこのように書いている。

 感ずることのあまり新鮮にすぎるとき
 それをがいねん化することは
 きちがひにならないための
 生物体の一つの自衛作用だけれども
 いつでもまもつてばかりゐてはいけない

いつでもまもってばかりいてはいけない、と。
(がいねん化する)ということは、自分のしっていることばで
説明してしまうということである。たとえば体験することが
あまり新鮮にすぎるとき、それは人間の自我の安定を
おびやかすので、わたしたちはそれを急いで、
自分のおしえられてきたことばで説明してしまうことで、
精神の安定をとりもどそうとする。けれどもこのとき、
体験はそのいちばんはじめの、身を切るような鮮度を
幾分かは脱色して、陳腐なものに、「説明のつくもの」に
なり変わってしまう。

にんげんの身をつつんでいることばのカプセルは、
このように自我のとりでであると同時に、また
わたしたちの牢獄でもある。人間は体験することのすべてを、
その育てられた社会の説明様式で概念化してしまうことで、
じぶんたちの生きる「世界」をつくりあげている。
ほんとうの〈世界〉はこの「世界」の外に、
真に未知なるものとして無限にひろがっているのに、
「世界」に少しでも風穴があくと、わたしたちは
それを必死に〈がいねん化する〉ことによって、
今ある「わたし」を自衛するのだ。


--


たまたま持ってきていた
見田宗介『宮沢賢治』岩波書店
に、あまりにも今の僕に必要なことが書いてありました。

そうです。解釈する必要なんてないのかもしれません。
体験を体験のままに、ありのまま受け入れる勇気を
僕は持っていなかったようです。

投稿者 bonga : 2005年07月22日 23:12

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