AとしてのC(A)、C(A)としてのA
ある命題をa、a’、a”…とする。
命題(a、a’、a”…)の無限集合をAとする。
その補集合をC(A)とする。
すべての要素命題(a、a’、a”…)をみたすとき、
Aが成り立つとする。
すべてはAである。
「世界はC(A)である」ということまで含めて
すべてはAである。
そして
逆もまた真なり。
すべてはC(A)である。
「世界はAである」ということまで含めて
すべてはC(A)である。
つまり、
世界はAであるけれども、
「世界はAであるということ」は
C(A)を含むし、
世界はC(A)であるけれども、
「世界はC(A)であるということ」は
Aを含む。
これらの論理は自己再帰性を有するので
言葉で厳密に定義することはできない。
そして、この不毛な論理ループですら
愛や神や真や善や美を
とらえることなどできやしないのだ。