思考がボンガループしてしまっている状態って、
思考の限界とか自分の能力の限界というよりは、
そのぐるぐるした状態自体が、じつは世界の様態を
そのまま表わしているんじゃないかって思う。
世界のボンガループが真なら
ボンガループした思考は、
その思考の構造それ自身によって真だ。
だから、限界なんて気にせずに
ぐるぐるしていればいい。
月別アーカイブ: 2005年3月
世界を描く
「ta ta ta ta」

な、なんだかすごい世界。
郡司侑祐さんという方。
何かの根源に触れている気がする。
ボンガループする
宇宙と自分について考えて、
結局ぐるぐるしてしまうことを
「ボンガループする」と名付けよう。
「いやあ、時間について考えてたらボンガループしちゃってさあ」
「僕なんて美について毎日2回はボンガループしてるね」
「ボンガループしていて遅刻しました」
「そこの彼女ー、僕と一緒にボンガループしない?」
ボンガループしてからどこまで耐えて考え続けられるかが重要だ。
いや、考えてはいけない。
いや、その考えてはいけないという誘惑に耐えて考えて記録に残すのだ。
いや、考えるだけ無駄だ。考えてはいけない。
いや、だからその誘惑に耐えてどこまで…
ぐるぐる。
Cf.)
「エスノメソドロジーする」
誘惑のボディトリップ
ヨガ教室の壁に「ボディトリップ」の文字。
いいことばだ。
あたまだけで考えられることなんてたかがしれてる。
あたまだけで行けるところなんてたかがしれてる。
からだでしか体験できない旅がきっとあるはず。
からだでしかたどり着けない場所がきっとあるはず。
真とか偽とか
そんなおこがましい審判をしてはいけない。
審判をする必要はない。
あなたは既に真理を知っていることの証明
真理を知らずに生きることこそ真理だ。
だから、あなたはすでに真理を知っている。
しかし、あなたが知っていることは真理ではない。
なぜなら真理を知らずに生きることこそが真理だからだ。
真理を知ることなど忘れるがいい。
光だけを描くことはできない
光を描くことは、闇を描くことと同値だ。
闇を描かずに光を描くことはできない。
光を描くことは、闇を描くことであり、
闇を描くことは、光を描くことである。
真も偽もない
というのは真だ。
真と偽があってもいいが、
真も偽もひっくるめて
ひとつだ。
辞書に真理は書かれているか
だっていつもループしてしまうでしょう。
いつだって言葉をきちんと説明できたことなんてない。
項目はつねに相互参照(クロスリファレンス)してループしてしまう。
でもこのループしている状態自体は真理だ。
だから個々の言葉に意味はない。
世界には関係性しかない。
辞書に真理は書かれている。
しかし、言葉としてではない。
言葉は指すことしか出来ない
言葉は真理を求めるための道具としても使える。
というか、言葉は真理を求めるための道具である。
しかし真理ではない。
真理でない限り、それを求める道具としてしか使えない。
言葉を信じてはいけないというのはそのためだ。