AとしてのC(A)、C(A)としてのA
ある命題をa、a’、a”…とする。
命題(a、a’、a”…)の無限集合をAとする。
その補集合をC(A)とする。
すべての要素命題(a、a’、a”…)をみたすとき、
Aが成り立つとする。
すべてはAである。
「世界はC(A)である」ということまで含めて
すべてはAである。
そして
逆もまた真なり。
すべてはC(A)である。
「世界はAである」ということまで含めて
すべてはC(A)である。
つまり、
世界はAであるけれども、
「世界はAであるということ」は
C(A)を含むし、
世界はC(A)であるけれども、
「世界はC(A)であるということ」は
Aを含む。
これらの論理は自己再帰性を有するので
言葉で厳密に定義することはできない。
そして、この不毛な論理ループですら
愛や神や真や善や美を
とらえることなどできやしないのだ。
月別アーカイブ: 2007年12月
自由という必然、必然という自由
すべては必然である。
「世界は自由である」
ということまで含めて
すべては必然である。
そして
すべては自由である。
「世界は必然である」
ということまで含めて
すべては自由である。
つまり、
世界は自由であるけれども、
「世界は自由であるということ」自体は
必然であるし、
世界は必然であるけれども、
「世界は必然であるということ」自体は
自由である。
宇宙を抱く。無限の宇宙を。
いまぼくの腕のなかで
かすかな吐息をたてて寝ている
ちいさなちいさなこの生命が
まるごとの宇宙だなんて
ちょっとすごい。
君は宇宙だ。
無限の宇宙だ。
Think Different
考えることを考えること
考えないことを考えないこと
考えないことを考えること
考えることを考えないこと
言葉ではないもののための言葉
すべての言葉は、
言葉ではないものの
ためにある。
だって
科学だって宗教でしょう。
宗教だって科学でしょう。
ほんとさ
君が笑ってくれることなら
なんだってやってみせるさ。
ぼくは君をとおして神の存在を知った
大きな大きな自然の摂理にしたがって
ぼくは君を好きになった。
真理は真理ではない。
なぜなら
完璧なものなど真理ではないからだ。
ほんとうの美は醜と同じであるように
ほんとうの真理は非真理と同じだ。
真理は真理でないものと同値だ。
集合Aはその補集合C(A)と等しい。
A=C(A)
この命題が真であるということは、
つまりこの命題は真ではないということだ。
A=C(A)⇒¬(A=C(A))
…そして、ここが重要なのだが、
真理が真理でなかったところで
日常はつづくし隣りのねこは
ひなたぼっこをつづけるのだ。
あたかもこれこそが
真理であるかのようにね。