大きな大きな自然の摂理にしたがって
ぼくは君を好きになった。
真理は真理ではない。
なぜなら
完璧なものなど真理ではないからだ。
ほんとうの美は醜と同じであるように
ほんとうの真理は非真理と同じだ。
真理は真理でないものと同値だ。
集合Aはその補集合C(A)と等しい。
A=C(A)
この命題が真であるということは、
つまりこの命題は真ではないということだ。
A=C(A)⇒¬(A=C(A))
…そして、ここが重要なのだが、
真理が真理でなかったところで
日常はつづくし隣りのねこは
ひなたぼっこをつづけるのだ。
あたかもこれこそが
真理であるかのようにね。
なんてね
自由とは永遠の希望である。
神さまと左きき
小さいころから左ききの女の子が好きだった。
どうしてだかは自分でもわからなかった。
でもね、
君に出会ってわかったんだ。
君を見逃さないために
神さまがつけてくれたサイン
なんじゃないかってね。
何もないのさ
そう、ここには何もないのさ。
探していたものなどない。
では我々の日々の営みは
すべて無駄だというのか?
いや、そんなことはない。
探すという行為にこそ
探している対象が宿るのさ。
愛なんてない。
でも愛なんて知らずに
愛し抜くことはこっけいで
美しいだろう?
それは愛なんじゃないかな。
声を聴け
内なる心の声を聴け。
静かに、
その声までもが
聞こえなくなるほど
しずかに。
調和のなかに
溶けてひとつに
なってしまいたい。
調和のなかに
溶けてひとつに
なってしまいたい。
ボンガループ危機一髪!
ボンガループ! では基本的にループを肯定している。
世界の成り立ちの基本的な構造としてループを採用している。
でも先日この話をしていたら、
「なぜそんなにループを肯定するのか、
そのループが輪廻じゃないのか、
そこから抜け出すのが解脱ではないのか?」
と言ってきた友だちがいた。
うぐ。するどい指摘だ。
しかも場所はインドの安宿。
さて、どうする、ボンガループ!
よいこの質問
せんせー、質問でーす。
修行や瞑想による悟りと
サイケデリックスによる体験は
同じものなんですか?
同じです。
ホントに?
同じです。
せんせー、
修行したことあるですか?
いいえ。
じゃあなんで同じだって
わかるんですかー?
そもそも、悟りの境地では
同じか違うかの区別すら
ないからです。
じゃあなんでせんせーは
自分は悟ったと
わかるんですかー?
自分が悟っているかどうか
なんてわかりません。
そんなことは関係ないのです。
自分、などないのです。
わかる、などないのです。
ただ、その瞬間、
輝ける白い光につつまれ
すべてが祝福に満たされるのです。
いや、失礼。
つつまれるのではなく
満たされるのでもなく、
光そのものとして
祝福そのものとして、
ただここにあるのです…。
…ただ、それだけです。
ぶー。
家へ帰ろう
知ることについて
知ることをやめたとき、
あなたは既に
すべてを知っている
ことに気づくだろう。
ただし、
その境地ではもはや
知る主体も
知る対象も
ひとつとなり、
調和として
溶け合っている。
それを
美と呼ぼうが
愛と呼ぼうが
もう誰も知らない。