2008年05月03日

問うな

問いがあるから問うのではない。
問うから問いがあるのだ。

問うことをやめれば
それが答えだ。

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2008年02月21日

僕は僕ではない。あるいは僕でないものとしての僕

何ものでもないもの
としての自己、
その自己はもはや
自己ですらない。

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2008年01月12日

世界、人、倫理

倫理とは人の、世界に対する敬意である。
人がどれだけ倫理的であれるか、
というのはつまり
どれだけ世界に対して敬意を示すことができるか、
ということである。

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2007年12月26日

同一律と排中律をスーパーセット(上位互換)として ver. up する不毛な論理ループ。あるいは、フレーゲとカントールにささげるカノン。レヴィ=ストロースの夢のために。

AとしてのC(A)、C(A)としてのA

ある命題をa、a'、a''...とする。
命題(a、a'、a''...)の無限集合をAとする。
その補集合をC(A)とする。

すべての要素命題(a、a'、a''...)をみたすとき、
Aが成り立つとする。


すべてはAである。
「世界はC(A)である」ということまで含めて
すべてはAである。

そして
逆もまた真なり。
すべてはC(A)である。
「世界はAである」ということまで含めて
すべてはC(A)である。


つまり、
世界はAであるけれども、
「世界はAであるということ」は
C(A)を含むし、

世界はC(A)であるけれども、
「世界はC(A)であるということ」は
Aを含む。


これらの論理は自己再帰性を有するので
言葉で厳密に定義することはできない。


そして、この不毛な論理ループですら
愛や神や真や善や美を
とらえることなどできやしないのだ。

投稿者 bonga : 01:23 | コメント (0) | トラックバック

自由という必然、必然という自由

すべては必然である。
「世界は自由である」
ということまで含めて
すべては必然である。

そして
すべては自由である。
「世界は必然である」
ということまで含めて
すべては自由である。

つまり、
世界は自由であるけれども、
「世界は自由であるということ」自体は
必然であるし、

世界は必然であるけれども、
「世界は必然であるということ」自体は
自由である。

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2007年12月25日

宇宙を抱く。無限の宇宙を。

いまぼくの腕のなかで
かすかな吐息をたてて寝ている
ちいさなちいさなこの生命が
まるごとの宇宙だなんて
ちょっとすごい。
君は宇宙だ。
無限の宇宙だ。

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2007年12月24日

Think Different

考えることを考えること
考えないことを考えないこと

考えないことを考えること
考えることを考えないこと

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2007年12月21日

言葉ではないもののための言葉

すべての言葉は、
言葉ではないものの
ためにある。

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2007年12月18日

だって

科学だって宗教でしょう。
宗教だって科学でしょう。

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2007年12月14日

ほんとさ

君が笑ってくれることなら
なんだってやってみせるさ。

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2007年12月13日

ぼくは君をとおして神の存在を知った

大きな大きな自然の摂理にしたがって
ぼくは君を好きになった。

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2007年12月02日

真理は真理ではない。

なぜなら
完璧なものなど真理ではないからだ。
ほんとうの美は醜と同じであるように
ほんとうの真理は非真理と同じだ。

真理は真理でないものと同値だ。
集合Aはその補集合C(A)と等しい。
A=C(A)

この命題が真であるということは、
つまりこの命題は真ではないということだ。

A=C(A)⇒¬(A=C(A))

…そして、ここが重要なのだが、
真理が真理でなかったところで
日常はつづくし隣りのねこは
ひなたぼっこをつづけるのだ。


あたかもこれこそが
真理であるかのようにね。

投稿者 bonga : 04:17 | コメント (0) | トラックバック

2007年11月30日

なんてね

自由とは永遠の希望である。

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2007年11月26日

神さまと左きき

小さいころから左ききの女の子が好きだった。
どうしてだかは自分でもわからなかった。

でもね、
君に出会ってわかったんだ。

君を見逃さないために
神さまがつけてくれたサイン
なんじゃないかってね。

投稿者 bonga : 22:14 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月31日

何もないのさ

そう、ここには何もないのさ。
探していたものなどない。

では我々の日々の営みは
すべて無駄だというのか?

いや、そんなことはない。
探すという行為にこそ
探している対象が宿るのさ。

愛なんてない。
でも愛なんて知らずに
愛し抜くことはこっけいで
美しいだろう?

それは愛なんじゃないかな。

投稿者 bonga : 14:27 | コメント (0) | トラックバック

2007年03月20日

声を聴け

内なる心の声を聴け。
静かに、
その声までもが
聞こえなくなるほど
しずかに。

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2006年05月24日

調和のなかに

溶けてひとつに
なってしまいたい。

調和のなかに
溶けてひとつに
なってしまいたい。

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2006年04月21日

ボンガループ危機一髪!

ボンガループ! では基本的にループを肯定している。
世界の成り立ちの基本的な構造としてループを採用している。
でも先日この話をしていたら、

「なぜそんなにループを肯定するのか、
そのループが輪廻じゃないのか、
そこから抜け出すのが解脱ではないのか?」

と言ってきた友だちがいた。
うぐ。するどい指摘だ。
しかも場所はインドの安宿。
さて、どうする、ボンガループ!

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2006年01月08日

よいこの質問

せんせー、質問でーす。
修行や瞑想による悟りと
サイケデリックスによる体験は
同じものなんですか?

同じです。

ホントに?

同じです。

せんせー、
修行したことあるですか?

いいえ。

じゃあなんで同じだって
わかるんですかー?

そもそも、悟りの境地では
同じか違うかの区別すら
ないからです。

じゃあなんでせんせーは
自分は悟ったと
わかるんですかー?

自分が悟っているかどうか
なんてわかりません。
そんなことは関係ないのです。
自分、などないのです。
わかる、などないのです。
ただ、その瞬間、
輝ける白い光につつまれ
すべてが祝福に満たされるのです。
いや、失礼。
つつまれるのではなく
満たされるのでもなく、
光そのものとして
祝福そのものとして、
ただここにあるのです…。
…ただ、それだけです。

ぶー。

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2006年01月04日

家へ帰ろう

知ることについて
知ることをやめたとき、
あなたは既に
すべてを知っている
ことに気づくだろう。

ただし、
その境地ではもはや
知る主体も
知る対象も
ひとつとなり、
調和として
溶け合っている。

それを
美と呼ぼうが
愛と呼ぼうが

もう誰も知らない。

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2005年12月26日

部分と全体

fractal.jpg

http://en.wikipedia.org/wiki/Fractal より。

すげー。フラクタルだ。
ブロッコリーの一種だそうです。

フラクタルな次元では
部分と全体が自己相似になっていて、
部分は全体であり、全体は部分だ。

そうやってぼくたち宇宙はできている。
個は宇宙の部分であると同時に
宇宙全体でもある。

そこに区別はない。

Fractal Desktops
かなりキテます↑。ヤバ。
Archive links も観るべし。

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2005年12月12日

存在は存在するのか

あるものが「存在している」というのは
時間の関数だろうか。

たとえば、
時刻 T1 と時刻 T2 との間に
存在しつづけることを
ひとはものがそこに「存在している」と
認識するのだろうか。

では、時刻 T1 にそもそも
ものがそこに「存在している」
ことはどう示せばいいのだろう。

つまり、これでは
存在の定義のなかに
存在が前提されてしまっている。

時間の極限である時刻では存在はないが、
時刻と時刻の差である時間の間にだけ、
存在は存在するのだろうか。

まてまて。そもそも
「存在がある」とか「存在がない」とかの
「ある」と「ない」について
ぼくらは話していたのではなかったのか…

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2005年11月26日

こそあどの神

「神」や「美」や「真理」という言葉は、
指示代名詞と同じだと考えてみたらどうだろう。

「これ」とか「それ」とか「あれ」とかと同じ。

直接表現できないものを指し示す言葉。
直接言葉にはできないけれど、
作業概念としては
指し示す言葉があると便利だから、
とりあえずそう表現しているだけ。

でも注意!
実体は空(くう)だから
そこになにかあるわけではないんだよ。
空(くう)を指し示す代名詞としての「神」。

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悟ってはいけない。

悟るということは、
悟る必要などない、
ということを悟ることだ。
悟ってはいけない。
あとはただ日常を暮らせ。

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うまく言えないけどさ

気流舎ブログのほうで書いた
言葉をこえてゆくもの」のつづきを
いまごろこちらで。

この「言葉にならない」感覚は、
なにも死者に対するときだけでなく、
日常のちょっとしたこと、
たとえば、恋人や、友達や、本や、
映画や、音楽や、景色なんかに対しても
いつでもふつうに湧き起こる感覚で、

そんなときぼくらは
「言葉にならない」とか
「うまく言えないけどさ…」なんて
自分の能力不足のように
照れてごまかしたりするけれど、

ほんとうはそこに大切ななにかが
隠されていることを知っているし、
なんでそれが「うまく言えない」のか
にも気づいている。

言葉が足りないのではなく、
言葉なんていつだって足りないのだ。

うまく言えないのは、それが、
言葉をこえるほど大切ななにかに
触れている証拠だ。

うまく言えないけどさ。

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2005年11月04日

真理を探せ

01.jpg

円を描くにはふたつの方法がある。
ひとつは、直接ぐるっと円を描いてしまう方法。(図左)
もうひとつは、まわりを塗りつぶして円を抜く方法。(図右)
真理(それは神といってもいいし、美といっても、空といってもいい。以下同)
って後者みたいなもののような気がする。

そこには円(真理)が存在するといってもいいし、
存在しないといってもいいの。
実体はないから、それに触れることはできない。

02.jpg

ここでひとつの矢印を考えてみる。
ひとまず、この矢印のことを
「真理を求める姿勢」
とでもしておこう。

座禅を組んだり、絵を描いたり、哲学したり
まあ、なんでもいいです。
人を好きになったり、
日常生活でもいいかもしれない。

03.jpg

真理を求めてるとね、
それなりに見えてくるんですよ、
なんとなく真理っぽいものがさ。
ちょうど円を抜いて描くようにね。(図左)

で、お、これはいけるんじゃないかって
もうちょっとがんばると
結構近くまで行けたりすんの。(図中)

でも最後の最後、
よし、つかんだって思ったら
真理はぱっと消えてしまって、
向こう側から来た自分がいたりするのね。(図右)

円のなかが真理だと思っているなら、
原理的に絶対にたどり着けない。


だから、
真理なんて探すまでもなくここにあるんだよ。
といってもいいし、
いや、求める姿勢にこそ真理が宿るんじゃないか、
といってもいいかもしれない。

投稿者 bonga : 16:40 | コメント (2) | トラックバック

いまここ、の同心円

「いまここ」の話は、
こう考えてもいいかもしれない。

ここに同心円があったとするよね。
円Aと、もっと大きな円B、さらに大きな円C
でも中心の位置はみんなおなじなのね。
同心円だから。

この場合、円ABCは
「おなじ場所にある」って
いってもいいんじゃない?

て、ことはだよ、
自分を中心にして同心円を思い浮かべて、
その円を宇宙大の大きさまで拡大すれば
その最大の円はやっぱり「ここ」にあるんじゃない?

時間についてもおなじね。

投稿者 bonga : 15:41 | コメント (0) | トラックバック

いまここ、の思考実験

世界には「いまここ」しかない。


「いま」という言葉は
ただ一点の瞬間を指すと同時に、
つねにある幅ももっている。

たとえば、幼い頃の友人が久々の電話で
「いま何してんの?」といえば、
その「いま」は、
ここ数ヶ月間のことかもしれないし、
数年間のことかもしれない。

「いまは飛行機があるから楽だよね」
といえば、その「いま」は、
100年間くらいの幅をもっている。

つまり、「いま」の幅は使う側の
意識の大きさによって変わってくるわけだ。

じゃあ、実験。
その「いま」の意識を無限大まで拡大したら?
ほら、世界には「いま」しかないでしょう。


まったく同じように、
「ここ」の概念も拡大できる。

「ここ」という言葉は
ただ一点の場所を指すと同時に、
つねにある幅をもっている。

たとえば、東京から沖縄に行ったひとが
「ここは暑いね」といったら、その「ここ」は、
たぶん数百Kmくらいの幅をもっている。

つまり、「ここ」の幅も使う側の
意識の大きさによって変わってくるわけだ。

じゃあ、実験。
その「ここ」の意識を無限大まで拡大したら?
ほら、世界には「ここ」しかないでしょう。


で、世界には「いまここ」しかないわけだけど、
「いまここ」しかない世界は、
そもそも時間も空間も存在しない気がする。
だっていまとここのひとつしかないんだもん。

投稿者 bonga : 15:31 | コメント (0) | トラックバック

2005年10月26日

朝のドナルド・ダック

ゆったりと水に浮かんで彼は言う
ぼくだって神さまだよ

谷川俊太郎「朝のドナルド・ダック」

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2005年10月09日

ぐるぐるハラショー

ほら、マトリョーシカ人形ってあるでしょう。
人形のなかに小さな人形がいくつか
入れ子になって入っているあれね。

あのマトリョーシカ人形のいちばん外側の
でっかいやつのさらに外側に、
ホントはもっとでっかいやつがいたとするよね。
ぼくたちよりもでっかいから気づかないだけでさ。

さらにその外側にも、
もっともっとでかいやつもいるの。
宇宙くらいでっかい人形。

んで、小さい方にもじつは、
もっともっと小さいやつがいるのね。
やっぱりぼくらが気づかないだけでさ。

するとその
一番でっかいやつと
一番ちっこいやつは
どういうわけだか、
じつは同じやつなんだって!

フフフ。

投稿者 bonga : 22:45 | コメント (0) | トラックバック

球体の奏でる世界

echer.jpg

http://www.mcescher.com/より。


すっごく小さい球体の鏡があったとしますよね。
完全に球体で、なんでも反射してしまう
理想化したやつを考えてみる。
中身はカラね。

ついでに物質的な光だけでなく、
時間とか意識とかそんなものまで含めて
まわりにあるものはなんでも反射しちゃう
と考えてみる。

いいんです、
思考実験なんだから。

そうすると、
その球体(ボンガボールとでも呼んでみましょうか)
は、全宇宙を映し出しているわけです。
球体だし、なんでも反射しちゃうからね。

でもひとつだけ
映らないものがあるでしょう。
そう、自分ね。
全宇宙を映し出している球体には
しかし、その球体自身は映りようがない。

自我ってなんだかそんなもんな気がする。
映し出す外界がなければ自我もないの。
中身はカラだからね。実体はないわけ。
でも、そんなちっぽけで実体のない自分に
全宇宙が体現されてるの。それだけが実体。
もちろん、逆もまた真なりだから、
外界のほうも実体はないのね。

あるいは、こう考えてもいいかもしれない。
ボンガボールが2つあったとすると、
その相手に映ることによってはじめて
自分の存在を認識できるでしょう。
自分が映し出している全宇宙
(そこには相手も含まれている)も
はじめて相手に認識してもらえるでしょう。
でもお互いのボール自身は
やっぱりカラなのね。

つまりその世界には、
映ったり映したりというような、
「関係性」しかないわけ。
世界(=自我)の実体は無だけども、
関係性だけはあって、そうやって
関係の網の目のなかで、なかだけで、
僕ら(その世界ではもはや梵=我だから
自他の区別はもうなくて、「僕ら」は
我の集まりでもいいし、梵でもいいのね)は
存在している(=存在していない)
んじゃないかなって。


うまく言えないや。

投稿者 bonga : 21:19 | コメント (0) | トラックバック

2005年10月07日

穴をめぐるぐるぐる

大発見!
フェラチオとアナルセックスって
同じ穴だって知ってた?

口とアナルはいつもはなんとなく閉じてるから
気づかないけど、そう思うと
人間ってトポロジー的には
単なるトーラス(ドーナツ型)で

内側と外側とか
自己と外界とか
そんなものが結構あやしく
思えてきたりしない?

…しないか。
てか少なくともフェラしてもらってるときに
そんなことを思ったりはしない。

投稿者 bonga : 20:29 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月09日

美にひざまずけ

美しいものをみたいと思わないか?
美しいものではなく、
美そのものを感覚したくはないか?
美そのものを感覚するのではなく、
美そのものを生きたくはなくか?
美そのものを生きるのではなく、
美そのものになりたくはないか?

美に溶け、
美とひとつに
なりたくはないか?

よろしい、

君はもう
美そのもの

だとしたらどうする。
もし君に、そんな勇気が
あるとすればだがね。

投稿者 bonga : 15:32 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月07日

4つ打ちぐるぐる

4つ打ちってループの極限なんだと思う。

他のビート(例えばブレイクビーツとか
それを抽象化したドラムンベースとか)は
ループの単位が何小節かにわたるけど、
4つ打ちの場合はループの最小単位は
キックひとつ(と次のキックまでの無音)だ。

4つ打ちでもそれ以外でも
世界を体現せんとする音楽にとって
ループは最も端的な手段だ。

だから、
イギリス政府がレイヴを非合法化しようとした
"Criminal Justice Act"において、
"the emission of a succession of repetitive beats"
(反復的な音の連続的な放出)を規制したのは、
ばかばかしいけど結構本質をついているんじゃないか

とか思った。

投稿者 bonga : 14:06 | コメント (0) | トラックバック

あるとかないとかもない世界を考えてみよう。

この世界には
あるとかないとかは
ない。

だって
あるとかないとかもない世界
を考えているんだからね。

でも
ない=ある。
だって
あるとかないとかは
ない
んだからね。

ない=ある
=ない
=ある
=…

ただ、
この無限にループした状態そのもの
だけは
ある。

=ない
=ある
=…

ほらね、
ル ー  プ    し        て                き                                た                                                                …


うふふ。

投稿者 bonga : 05:29 | コメント (0) | トラックバック

神がいるとかいないとか (二)

神「お前は私だ」
私「へ? あっしが神ですか?」

神「お前は私だ」
私「あの、いや、だから
  こんなあっしが神でいいんすか?」

神「お前は私だ」
私「へぇ、あっしが神とはねえ。
  えらくなったもんだ」

神「お前は私だ」
私「あっしが神ってことはだ、
  これを一般に帰納すれば
  世の中には神しか存在しない
  ってことだ。だってあっしは
  誰/何でもいいんですからね。」

 「神しか存在しなければ、
  確かにあっしは神だ。」

神の「存在=非存在」の証明は
これで必要十分?

投稿者 bonga : 04:37 | コメント (0) | トラックバック

神がいるとかいないとか (一)

神様はいるんですか?

そもそも
「いる」とか「いない」とか
もない状態を神というのなら
神はいるだろう。

ただし、その世界では
「いる」とか「いない」とかは
ない。

「ない」とか「ある」とかも
ない。

=ある

=ない

=…

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2005年05月06日

ぐるぐる段ボール

box.jpg

なはは。
ぐるぐる。

投稿者 bonga : 23:33 | コメント (0) | トラックバック

真理を信じるな

オアシスのニューアルバムが
「Don't Believe The Truth」だってさ。
深いね。だまされるなよってこと。

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2005年03月24日

ボンガループのボンガループ

思考がボンガループしてしまっている状態って、
思考の限界とか自分の能力の限界というよりは、
そのぐるぐるした状態自体が、じつは世界の様態を
そのまま表わしているんじゃないかって思う。

世界のボンガループが真なら
ボンガループした思考は、
その思考の構造それ自身によって真だ。

だから、限界なんて気にせずに
ぐるぐるしていればいい。

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2005年03月23日

世界を描く

ta ta ta ta

note18.jpg

な、なんだかすごい世界。
郡司侑祐さんという方。
何かの根源に触れている気がする。

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2005年03月20日

ボンガループする

宇宙と自分について考えて、
結局ぐるぐるしてしまうことを
「ボンガループする」と名付けよう。

「いやあ、時間について考えてたらボンガループしちゃってさあ」
「僕なんて美について毎日2回はボンガループしてるね」
ボンガループしていて遅刻しました
「そこの彼女ー、僕と一緒にボンガループしない?」

ボンガループしてからどこまで耐えて考え続けられるかが重要だ。
いや、考えてはいけない。
いや、その考えてはいけないという誘惑に耐えて考えて記録に残すのだ。
いや、考えるだけ無駄だ。考えてはいけない。
いや、だからその誘惑に耐えてどこまで…
ぐるぐる。

Cf.)
「エスノメソドロジーする」

投稿者 bonga : 16:39 | コメント (2) | トラックバック

誘惑のボディトリップ

ヨガ教室の壁に「ボディトリップ」の文字。
いいことばだ。

あたまだけで考えられることなんてたかがしれてる。
あたまだけで行けるところなんてたかがしれてる。

からだでしか体験できない旅がきっとあるはず。
からだでしかたどり着けない場所がきっとあるはず。

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真とか偽とか

そんなおこがましい審判をしてはいけない。
審判をする必要はない。

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あなたは既に真理を知っていることの証明

真理を知らずに生きることこそ真理だ。
だから、あなたはすでに真理を知っている。

しかし、あなたが知っていることは真理ではない。
なぜなら真理を知らずに生きることこそが真理だからだ。

真理を知ることなど忘れるがいい。

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光だけを描くことはできない

ball.jpg
光を描くことは、闇を描くことと同値だ。
闇を描かずに光を描くことはできない。

光を描くことは、闇を描くことであり、
闇を描くことは、光を描くことである。

投稿者 bonga : 09:28 | コメント (0) | トラックバック

真も偽もない

というのは真だ。
真と偽があってもいいが、
真も偽もひっくるめて
ひとつだ。

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2005年03月18日

辞書に真理は書かれているか

だっていつもループしてしまうでしょう。
いつだって言葉をきちんと説明できたことなんてない。
項目はつねに相互参照(クロスリファレンス)してループしてしまう。
でもこのループしている状態自体は真理だ。
だから個々の言葉に意味はない。
世界には関係性しかない。

辞書に真理は書かれている。
しかし、言葉としてではない。

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言葉は指すことしか出来ない

言葉は真理を求めるための道具としても使える。
というか、言葉は真理を求めるための道具である。
しかし真理ではない。
真理でない限り、それを求める道具としてしか使えない。
言葉を信じてはいけないというのはそのためだ。

投稿者 bonga : 03:27 | コメント (0) | トラックバック

意味がないことの意味

意味なんてない。
でも意味なんてないという状態そのものは意味だ。

真理なんてない。
でも真理なんてないという状態そのものは真理だ。

そしてこのループは真だ。

だから意味のわからない状態のままでいればいい
それが意味だ。

真理なんて知らないままでいればいい
それが真理だ。

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ぐるぐる世界

"THE ZOOMQUILT"

zoomquilt.jpg

ぬは! きもちワル!
でもこのぐるぐる観は真だ。

絵本でもこんなの↓ありますね。
Istvan Banyai "Zoom" Viking Childrens Books

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2005年03月17日

だまされてはいけない

意味に意味はない。
価値に価値はない。
あるとかないとかもない。
ただあるのみ。
ただないのみ。

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