Sun, 29 Aug 2004

天朗気清恵風和暢仰観宇宙之大俯察品類之盛

先日買った、柳宗悦『民藝四十年』岩波文庫。
近所の本屋さんでかけてくれた紙のカバーが
なにやら漢字で覆われていたので調べてみたら…。
王羲之(おうぎし)の「蘭亭叙」でした。
書の聖人が酔っぱらって書いた最高傑作。
そうか、これが王羲之か…。

書のさんぽ道 :: 蘭亭叙をみる

蘭亭叙が何よりすぐれている点は、「卒意の書」であったことだと言われています。卒意の書とは、上手く書いて人に見せるという意識がなく、心の感ずるまま自由に書くことです。書いた動機が純粋なだけに、それが見るものを引きつけるのでしょう。

柳宗悦の本にこれほどふさわしいカバーもないですね。
しかも、

この日、空は晴れわたり空気は澄み、春風がのびやかにながれていました。我々は、宇宙の大きさを仰ぎみるとともに、地上すべてのものの生命のすばらしさを思いやりました。

っていいこと書いてあるではないですか。
ちなみに、『カイエ・ソバージュ』を買ったのと同じお店です。
その博雅なセンスに脱帽。

さて、気流舎のブックカバーは
どんなものにしましょうか。

石川九楊『やさしく極める"書聖"王羲之』新潮社
石川九楊 編『書の宇宙』二玄社書店(第6冊:書の古法[王羲之])

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Wed, 25 Aug 2004

無事の美

太陽と精霊の布@千葉市美術館
柳宗悦の民藝と巨匠たち展神奈川近代美術館葉山

最近つとに思うのは、
アノニマスな民藝にまさる創造なんてないのではないか
ということで、あるいは、
創造なんてはたして可能なのか
ということで、あるいは、
創造は日常にしかないのではないか、とか、
日常は創造でしかないのではないか、とかとか。
デザインなどというおこがましい言葉には
もうあまり魅力を感じなくなってしまった。

日本民藝館
柳宗悦『民藝四十年』岩波文庫(千夜千冊

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Wed, 09 Jun 2004

コミュニケーションのデザイン

CSRに関してひきつづきお勉強。経済同友会の『第15回企業白書』はなかなかどうして、よくできてます。経営者のみなさん、しっかりお読みなさいな。義務でもコストでもなく、企業価値を産み出す源泉なのですよ。
CSRは多様なステークホルダーとのコミュニケーションとしてとらえることができて、どれだけ誠実な対話ができるかってことが問われている。

CSR CONSORTIUM

当サイトは、CSRに積極的に取り組む企業の担当者と直接対話できる世界初のコミュニケーションプロジェクトです。…企業とのオープン且つ建設的な対話を通じ、持続可能な社会への道を共に考える場でありたいと考えます。

これはすばらしいデザインの仕事だと思う。新しい対話のかたちを提案してます。つくっているのは、ディ・エフ・エフという会社。

「持続可能な社会」のあるべき姿を描き、それにつながる先進のコミュニケーション・ツールを創造・提供する

というミッションに共感。ほかにもクリック募金のサイトや、持続可能な社会のビジョンを語るサイトなんてのもつくっていて、しかもキレイ。いい仕事してます。

空想生活@cosme復刊ドットコムは企業と生活者を結ぶ新しいアプローチだし、ブログソーシャルネットワーキングもあるいは関心空間みたいなものも、すべて新しいコミュニケーションのかたちの提案。出合いや対話をうながす仕組みのデザインはますます大切になっていきそう。

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Sun, 06 Jun 2004

たて組ダメ組

細谷巖@G8
佐藤卓@ggg
田中一光@MOTS
はい、みなさんすばらしいです。
もう訳もなくあやまりたくなってしまいます。
ごめんよ、もうデザイナーなんて辞めるから許しておくれよ。

と言いつつ
後藤、佐々木、深澤『デザインの生態学』東京書籍
とか購入。アンビバレンス。長沢節@弥生美術館も行きたい。

細谷巖の仕事で世界デザイン会議(1960)で配られた冊子『ぐ』というのがあって、そのなかの「日本のデザインは古来より素材を抑え込むのではなく、宇宙のなかでしかるべき形と位置へおさめることを旨としてきた」というような記述(もっと格調高かった気がする)が心に滲みる。

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Wed, 28 Apr 2004

漢字のドリームタイム

カルロス・カスタネダ「夢見の技法」二見書房

夢見は経験するものだ。夢見はたんに夢を見ることではない。白昼夢を見ることとも、望みをもつこととも、想像にふけることともちがう。夢を見ることによって、わしらはもうひとつの世界を知覚できるのだ。——ドン・ファン

夢は、シャーマニズムにとって重要な「もうひとつの世界」だ。シャーマンは夢見という技法を使って意識の深淵に触れ、世界を説明しようとする。実はその「夢」という漢字が、そもそも夢占いをする巫女(つまりシャーマン)を表すのだという。

白川 静「字統」平凡社

「かん」と夕(ゆうべ)とに従う。「かん」は媚蠱(びこ)などの呪術を行う巫女(ふじょ)の形。その呪霊は、人の睡眠中に夢魔(むま)となってその心をみだすもので、夢はその呪霊のなすわざとされた。(「かん」の字は表示できません。ここ参照)

なんという符合だろう!
いや、おどろくべき符合ではなく、たんに僕たちが「夢」の生い立ちを知らずに過ごしてきただけか。そう、夢は睡眠時の幻などではない。心を開こうとする者にとっては「もうひとつの世界」を垣間見せてくれる入り口なのだ。そして、そのことを「夢」という漢字は数千年にも渡って示し続けてきてくれた。夢のなかで蝶となった荘子は、百年を花上で遊んだという。目が覚めてどちらが現実かを問う必要は、もうないだろう。もちろんどちらも、だ。

…なんてことを書いてますが、一応注釈。
「白川漢字学」は呪術的、祭祀的色彩が強く、これが一般的な解釈かというとそうでもないようです。例えば角川「大字源」も、大修館「大漢語林」も、「暗いなかで見るもの」という程度の説明しかしていません。かなりの温度差があります。

どうしてこんなことになるのかというと、一般的な解釈は主に中国の古典に依っているところを、白川さんの場合は、さらに遡った甲骨文字の研究の成果も加味しているからのようです。甲骨文字が発見されたのは1899年であり、それ以前の古典を絶対視するのはおかしいだろう、というわけです。なるほど。さらに、白川翁は漢字を通して無文字時代の意識にまで迫ろうとします。

漢字の構造は、その文字体系の成立した時代、今から三千数百年以前の、当時の生活と思惟のしかたを、そのままに反映している。あるいはまた、それより以前の、文字がまだなかったいわゆる無文字時代の生活と思惟のしかたが、その時点において文字に集約され、その一貫した形象化の原則に従って、体系的に表現されている。漢字の歴史は、その無文字時代の意識にまで、遡ることができるものといえよう。(「字統」)

なんと壮大な漢字の宇宙なのでしょう。 残念ながら僕はどちらに妥当性があるのか判断する知識を持ち合わせていませんが、白川漢字学の方がはるかに豊かな「夢」を感じますよね。

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