「さわさわ気流舎(仮)計画」ご興味のある方はお気軽にご参加くださいー。

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下記のサイトで気流舎のイベント日程がチェックできます。
http://calendar.yahoo.co.jp/kiryuusha_books
これからのイベント
毎週火曜日【気流学舎 001】『民主と愛国』読書会
10月22日(月)お休みします。
10月24日(水)営業します。
10月27日(土)【気流学舎 009】映画のポケット vol.2
気流舎のメーリングリストもあります。ご参加ください。
ap bankは市民が主体となってする自然エネルギー、省エネルギー、環境をテーマとしたプロジェクトに融資します。
古本屋はダメすかね。
ネタ元になった未来バンクは僕も組合員になってます。組合員になって出資することが融資の条件とのことで、10万円を出資。出資額の10倍までの額を融資してくれる仕組みなのでもう少し増しときたいところ。事業報告を見ると個人にも結構融資してるみたいなので期待。でも金利3%固定はちと高いよね。
その点、市民バンクの金利は長期プライムレートと同率(4月現在1.7%)で魅力的。しかも審査は「夢の作文」。がんばって書きますよー。
今日の知ったかぶり:プライムレート
最優遇貸出金利。銀行が優良企業に貸し出す際の利率の低い金利。一年以上のものを長期、未満のものを短期という。らしい。
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洞窟に入った瞬間、まがいようもない神聖さを感じてしまった。理性はその感情に冷静さを求めたかもしれないけれど、あの感覚を素直に認めれば、やはり「神聖さ」だったのだと思う。
洞窟は太古より聖なる場として祀られ、
人々は集い、祈り、踊りを捧げてきた。
中沢新一「神の発明」講談社選書メチエ
神はしばしば天空の高いところにいるというイメージがありますが、スピリットはむしろ洞窟や祠や岩の割れ目や森の中の木のウロのような、光がさんさんと射し込んでくることのない、薄暗い密閉された空間を好むようです。(中略)さらに、スピリットが住処としている中空の空間はまた、さまざまな「増殖」のおこなわれる空間でもあります。富や食べ物や高い価値をもったものが、そこからやってくると考えられています。
スピリットは森の中や洞窟を住処にすると言われますが、来訪神はその森や洞窟を「通路」として、遠くの他界から人間の世界に出現してきます。
スピリットへの敬意は、今も変わってはいない。
洞窟は海に口を開けていて、砂のフロアは波に洗われていた。踊っている間も潮の満ち引きに応じて波の位置が変わり、僕らはその度に波に見とれた。パーティを支配していたのはサウンドシステムの音ではなく、波の音だった。電球の明かりではなく、闇の暗さだった。人々は軽い昂揚を笑顔で隠してステップを捧げる。ろうそくの炎が黒い波をやわらかく照らす。こんな時空間を体験したことはいままでになかった。
シタール、ジャンべ、ディジュリドゥ。
旋律と鼓動、倍音の聖性。
月食は満月の夜に起こる。太陽と地球と月が一直線に並ぶからだが、光だけでなく重力も重ね合わされて、その日、海は大潮を迎える。雲が月の光を鈍く隠したとしても、重力を遮ることはできない。海も大地も身体もすべて、その支配下にある。深夜、高くなりゆく波に追われてスピーカーとDJブースは移動を余儀なくされた。音が止まる。波だけが響く。恐れは畏怖の念として僕らの言葉を失わせる。
満月の夜のあのどことなく場違いな明るさを持った空が白みはじめて、厚い雲の奥に太陽が昇ったことを知る。待ちわびた光の到来だ。心のすみに小さく抱え込んでいた恐怖が光のなかへ溶け込んでゆく。昂奮しているのか、深く安らいでいるのか。逆光の波をもう一時間も見つづけている。
調和。
すべての調和を体感するために人は踊るのだろうか。
いや、人が踊っているのではない。ガイアだ。
僕たちのステップはその胎動のほんの一部分にしかすぎない。
真夜中のムーンダンス
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彗星と皆既月食にみちびかれて
4泊5日伊豆半島一周レイヴトラベル。
5月1日
家 → HEAVENS DOOR
朝、東京発。友人が遅れて行くことになったので一人で電車に。
東京 — 熱海 — 三島 — 修善寺。バスで宇久須へ。
三共食堂で小あじ鮨&かさご汁堪能。ウマ!
牧場の家キャンプ場は駿河湾を見下ろす絶好のロケーション。
テントを張って、音が鳴るまで読書。こーゆう時間が好き。
夜は強風、極寒。でも踊る。今年初なのでなんだかうずうず。
トラブルで時間がずれて strobo は体験できず。
5月2日
HEAVENS DOOR
朝は恒例のお散歩。仁科峠までの山道を見つけてトレッキング。
昼間は寝たり、食べたり、本を読んだり。
ジャンべのジャムでゆらゆらしたり。こーゆう時間が好き。
夜は dachambo で始まって、izzy のチルで逝く。
天気はイマイチで彗星は観れず。
5月3日
HEAVENS DOOR → 某パーティ(一応内緒?)
朝から雨。でもみんな踊る。
惜しみつつ移動に備えて早めにテント撤収。
同じく下田のパーティに行くという外人さんたちと合流。
やっと呼べたタクシーに相乗りして堂ヶ島温泉へ寄ることに。
沢田公園露天風呂最高!! ジェフ、ナイスチョイスだ!
バスで松崎から下田へ。さらに近くの海岸へ。
夜に友人と合流。こんなところで会うのもヘン。
会場はなんと海に口を開けた洞窟。すごい!
友人の言葉を借りれば、「入った瞬間に持ってかれた」
こんなパーティは初めて。その異空間に圧倒される。
5月4日
某パーティ
朝はお散歩。3つ先の湾まで行ってみる。
波打ち際で読書。じっと波の音を聴く。
事件発生。隣のファミリーからやきそばの材料6人分をいただく。
あの、僕ら2人なんですけど…。鉄板もないんですけど…。
いろいろ奮闘して6時間かけてやきそばを平らげる。
近くのコーヒーショップで読書。月食の原理について議論。雨。
洞窟にはゆったりとした幻想的な時間が流れる。感嘆。すばらしい。
ディジュの女の娘すごー。自然に感謝。主催者にリスペクト!
5月5日
某パーティ → 家
方角と天候によって、皆既月食は観れず。
でも白んでゆく空、洞窟に射し込む光、輝く波頭、
すべてを理解してる。溢れる想いは言葉にはならない。
雨の中テントをたたむ。疲労困ぱい。
1日3本のバスに合わせて下田へ。
下田 — 伊東 — 熱海 — 東京。
とりあえずご報告。
洞窟に関してはあまりにもよかったのでもう少し書きたい。
書いてみた↓
人はガイアの子宮で何を想い踊るのか
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外で踊るのは好きだけど、自然の息吹を感じる方法としては、いささか乱暴な気がしてしまう。レイヴに行った時にもできるだけ、近くの山々に足を踏み入れて静かにゆっくりと自然を感じられる時間をつくるようにしている。
今回もキャンプ場から峠へ抜ける山道を見つけて歩いてみた。荒れた人工林のなか、わずか1時間のショートトレイル。それでも感覚を澄ませばそこかしこに生命の脈動を感じることができる。丸太橋を渡って沢で顔を洗い、鳥の鳴き声をまね、羽アリの身づくろいを眺めたり、切り株の示す方位を SUUNTO の磁針と比べてみたり。倒されてなお芽吹かんとする木々の生命力に深く感心しているときにはもう、心は自然の一部となり自他の区別はなくなっていた。
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カルロス・カスタネダ「夢見の技法」二見書房
夢見は経験するものだ。夢見はたんに夢を見ることではない。白昼夢を見ることとも、望みをもつこととも、想像にふけることともちがう。夢を見ることによって、わしらはもうひとつの世界を知覚できるのだ。——ドン・ファン
夢は、シャーマニズムにとって重要な「もうひとつの世界」だ。シャーマンは夢見という技法を使って意識の深淵に触れ、世界を説明しようとする。実はその「夢」という漢字が、そもそも夢占いをする巫女(つまりシャーマン)を表すのだという。
白川 静「字統」平凡社
「かん」と夕(ゆうべ)とに従う。「かん」は媚蠱(びこ)などの呪術を行う巫女(ふじょ)の形。その呪霊は、人の睡眠中に夢魔(むま)となってその心をみだすもので、夢はその呪霊のなすわざとされた。(「かん」の字は表示できません。ここ参照)
なんという符合だろう!
いや、おどろくべき符合ではなく、たんに僕たちが「夢」の生い立ちを知らずに過ごしてきただけか。そう、夢は睡眠時の幻などではない。心を開こうとする者にとっては「もうひとつの世界」を垣間見せてくれる入り口なのだ。そして、そのことを「夢」という漢字は数千年にも渡って示し続けてきてくれた。夢のなかで蝶となった荘子は、百年を花上で遊んだという。目が覚めてどちらが現実かを問う必要は、もうないだろう。もちろんどちらも、だ。
…なんてことを書いてますが、一応注釈。
「白川漢字学」は呪術的、祭祀的色彩が強く、これが一般的な解釈かというとそうでもないようです。例えば角川「大字源」も、大修館「大漢語林」も、「暗いなかで見るもの」という程度の説明しかしていません。かなりの温度差があります。
どうしてこんなことになるのかというと、一般的な解釈は主に中国の古典に依っているところを、白川さんの場合は、さらに遡った甲骨文字の研究の成果も加味しているからのようです。甲骨文字が発見されたのは1899年であり、それ以前の古典を絶対視するのはおかしいだろう、というわけです。なるほど。さらに、白川翁は漢字を通して無文字時代の意識にまで迫ろうとします。
漢字の構造は、その文字体系の成立した時代、今から三千数百年以前の、当時の生活と思惟のしかたを、そのままに反映している。あるいはまた、それより以前の、文字がまだなかったいわゆる無文字時代の生活と思惟のしかたが、その時点において文字に集約され、その一貫した形象化の原則に従って、体系的に表現されている。漢字の歴史は、その無文字時代の意識にまで、遡ることができるものといえよう。(「字統」)
なんと壮大な漢字の宇宙なのでしょう。 残念ながら僕はどちらに妥当性があるのか判断する知識を持ち合わせていませんが、白川漢字学の方がはるかに豊かな「夢」を感じますよね。
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