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なんだかすごい本を読んでしまいました。
内田 樹「ためらいの倫理学」角川文庫
「私には分からない」というのが、知性の基本的な構えである…螺旋状態にぐるぐる回っているばかりで、どうにもあまりぱっとしないというのが知性のいちばん誠実な様態ではないか
世の中を少しでも住み良くしてくれるのは、「自分は間違っているかも知れない」と考えることのできる知性であって、「私は正しい」ことを論証できる知性ではない。
私たちは知性を計量するとき…その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分の見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか、を基準に判断する。
内田が関心をよせるのはある思想の内容よりもむしろ、その思想が語られるときの語法であり、語り口だ。断定的に正義を主張するものたちの言葉に潜む前提や限界を鮮やかに切り取ってみせる。これは強力な知的ウェポンだ。思わず自らをかえりみて口をつぐんでしまう。しかし相手を打ち負かして沈黙させることが内田の狙いではない。内田は断定したり審問したりする代わりに、ものごとをきっぱり判定できるような「そんな超越的な視座は存在しない」ことを出発点にして「無限にナカ取って」ためらい、逡巡し、ぐるぐるし続ける。それは
無限に「ナカを取っている」限り、私は言葉に窮することはなく、言葉を紡ぐことができる限り、どこかにブレークスルーのチャンスはある
と信じているからだ。単なる優柔不断おやじではないのだ。読み終えたあと、世界が一変して見えるようなそんな本がある。小さくて簡単な本の場合が多いが、本書もそんな本のひとつだ。
考えることだ。なにを? あらゆることを。どんな風に? 「極端」からはかなり離れて。内田さんは、その、考えるためのやり方を教えてくれる。…もしこの本が、もっとずっと前に存在し、そしてそれを読んでいたとしたら、わたしの人生はたぶんいまとはずいぶん違ったものになっただろう。
という高橋源一郎の解説に僕も同意するほかない。
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