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BE HERE なう。 ...and Fuck Twitter!
(あるいはある瞑想者のつぶやき)

今ここ、にあれ。それがブッダの教えであり、ヴィパッサナー瞑想の伝える奥義だ。
ツイッターに関する賞賛のうち、僕が一番心動かされたものは、「ツイッターは単なるつぶやきの集合ではない。ツイッターは今という時を感じるための道具だ」というものだった。
なるほど。それは素晴らしい。そんなメディアだったらぜひ使ってみたい。それこそ僕が待ち望んでいたものじゃないか!
でもどうしても拭えないこの違和感は一体何だろう。もはや嫌悪感に近いと言ってもいい。本能的な何かが僕をツイッターから遠ざけている。
「今」と「ここ」は切り離すことができないはずなんだ。
「なう」と打つその心は「ここ」にはいない。心ここにあらず、とは良く言ったものだ。うつむいて iPhone を操るからだのなんと空虚なことよ!
ツイッターは「今」を「ここ」から切り離すための道具だと思う。
今まで楽しく話していた目の前の彼女がふと携帯電話を開けた瞬間、彼女はもう「ここ」にはいない。そう、あなたも知っているあの瞬間の孤独。
騙されるなよ。つながりを求めていながら、世界を切り刻んではいないか?
人間だけではない。「今ここ」の自分は感覚を通じてすべての世界とつながっている。ひんやりとした風は今この瞬間も街の匂いを運び、色づいた木々の葉を揺らし、鳥たちのつぶやきをのせて、一人キーを打つあなたにも届いているはずだ。
でも心穏やかに感覚を開いていなければ世界を感じることは出来ない。
ヴィパッサナー瞑想ではあらゆる思考、言葉、想像などは「過去」か「未来」に属するものであって、「今ここ」にあるものではないのだという。
感覚だけが「今ここ」にある。あらゆる感覚を十全に開くことによって「今ここ」に留まり続けよ、とブッダは言う。解き放たれた感覚はまったく新しい〈世界〉を体感させてくれるはずだ。〈世界〉は歓びに溢れ、たとえ一人でも〈自分〉はすべてとつながっていることに気づくだろう。
世界と、人と、つながりあうというのは本当はそういうことだと思う。
--
#
「ツイッター」を「携帯電話」や「SNS」や、あるいは
「すべてのメディア」に代えても本質的には同じだと思います。
#
この文章は気流舎に集まる人々との(実際の)会話から生まれました。
ツイッター好きの方々との対話も刺激になりました。
インスピレーションを与えてくれた皆さんに感謝します。
Thanks to: ハーポ部長、ココペリ、Waterr、そしてブッダ、その他たくさん
26 Comments, 1 TrackBack | category: /computer | permalink
Toshiya the tribal wrote: No title
まったくもってtwitterはくだらないです。ニコ動とか、いわゆる「日本ならでは」の「コミュニケーション志向メディア」というのも、現代的な「鎖国」下の夜郎自大で無自覚にナショナリストな家畜たちのタワゴトです。
ここモントリオールではみんな基本おしゃべりなので、下向いてカチャカチャやるバカはないし、どっちか言うと相手にされない(まあ北米にもネット家畜は多いですが)。アムステルダムやザグレブでもレイヴァーやアナキストがKタイのメールをよく触ってるけど、人前でなんてアポイントメントとる以外ないし、単に電話より安いから使ってるって感じです。
「日本語環境」しか経験したことのない、あるいはむしろそれでいいって思える感覚や思想モドキが蔓延している東京は本当にBabylon。
東京/Babylonの外/深層/アンダーグラウンドはあちこちにあるのにね。
でも、「Twitterの政治思想」って論集を李情和を巻き込んで編んだら、面白いかもしれない。李や吉増剛造によると、つぶやきは「粒焼き」でもあるから、燃焼分子革命? 四月にはまた「家畜化するエクスモダン社会」に戻らなければならないのが憂鬱です。
気流舎 wrote: No title
>Toshiya the tribal さん
ホントですよねぇ。基本おしゃべりってのがじつは重要。
Babylonの外はいつでもどこでも(つまり「今ここ」に)あるのだと思っています。
それに気づかせないための装置にみんな夢中にさせられてる、ってところがまたBabylon。
タワゴトでない「Twitterの政治思想」に期待。
tu-ta wrote: 死にそこ なう
知り合いのnagataさんがツイッターを揶揄してつぶやいたのが以下
====
心ここにあらずなう。うなぎなう。ツイッタわからんなう、やる気にもならんなう。死なう團なう。
====
とか、いいながらやってる奴>ぼく。
「死なう團」ていうのが、なかなかわかんなかったんですが、たぶん「死ね死ね団」のバリエーション。
で、この死ね死ね団で面白いのが
» http
そう、話がそれたけど、高校生が「携帯はいのちと同じくらい大事」っていうのと「ツイッター」の流行って重なるものがあるのかと思いました。
tu-ta wrote: ブログに続きを書きました。
» http
かとうさんのいってること、だいたいそうだと思うんだけど、ちょっと違和感なんかも書いてるので読んでもらえたらうれしです。 あっ、Toshiya the tribal さんへの違和感なんかも書いちゃってます。このToshiyaさんがどのToshiyaさんなのか、ぼくにはわかんないんですが。
kachina wrote: No title
面白く読みました。Twitterの「〜なう」、の語源はポケットピカチュウのステータス表示だったという説があり、日本独自の現象です。私はもともとネット依存度が高い「今ここ」にいないことの多い生活でTwitterも普通に使っていますが、最近の、UStreamで誰かが音楽配信し、聴いているユーザ同士で、Twitter上で「一体感!」とか言い合う現象にはかなり驚いています。全員、一人でPCの前にいてキーボードタイプしているだけなのに..
Alohazuki wrote: No title
言いたいことはわかるんだけど
そんなことはモニターのある機器が広まっていく度に気付いていたことだし
どうして「なう」を対象とした禁止なんだろう?と違和感があります。
そしてこの告知をしているHPを見ている私の「今」「ここ」は同じことが言える。
だけれどこのHPは極力見ないで下さいとは言わないでしょう?
いっそのこと「携帯電話禁止」にしたら、まだわかるんだけどなぁ。。
tu-ta wrote: Alohazukiさま
「気流舎なう。禁止!」っていうのは、例えば話してる途中でそんなことをされたり、あるいはあそこで本の背文字をみながら、そんなことされたときの、そんなことしないでちゃんしゃべろうよっていう単純なことで、ツイッターへの店主のけなげな抵抗なんだと、ぼくは思います。「携帯電話禁止」っていうのはわかりやすいけど、ちょっと権力的で、なんか、体育会のりだなぁと思ったり。
tu-ta wrote: ひとつ訂正
《「死なう團」ていうのが、なかなかわかんなかったんですが、たぶん「死ね死ね団」のバリエーション》って書いてしまったんですが、本当にあったんですね。「死なう團」» http ぼくはぜんぜん知りませんでした。
気流舎 wrote: No title
みなさんありがとうございます。
>tu-taさん
ブログも読みました。心にいろんな波が打ったりしたとしても、
それでも心穏やかにあれ、というのがヴィパッサナーの教えです。
そして怒りに捕われているうちは「今ここ」にいることはできないであろう、と。
なかなか難しいですが、ガンジーやサティシュなどはそれが両立(克服?)
できているのがすごいのではないかと。
あと「つながり」が携帯に保証されていたら
そりゃ「いのちと同じくらい大事」にもなるでしょう。
「つながり」に「いのちと同じ」価値を置く感性は肯定したい。
でも保証しているのは携帯ではなく最終的にはダンマ(自然の摂理)なはず。
(重複消しておきました。)
>kachinaさん
ニコ動もそうですが、一体感とか今を共有している「感じ」を
与えてくれるものはやはりうれしいし盛り上がるのでしょう。
でもやはり、それ騙されてるから! と思ってしまいます。
「今ここ」を共有できるとうれしいという感覚自体は
結構本質的でレイヴとかリアルで体験できればすごく重要。
>Alohazukiさん
もちろんその通りでこのブログも読まなくていいし、
携帯もできれば使いたくない。本当は本すらいらないはず。
「なう」という言葉を使う Twitter は象徴的ですが、
切り離すことにおいてはあらゆるメディアも同じだなのだと思います。
まぁ簡単に言ってしまえば
「メディアを介したコミュニケーション」よりも
人とか自然とかとはもっと「直接に」交流しましょうよ
ってことです。
Alohazuki wrote: No title
話してる最中にやり始められてイヤだと思うのならば「なう」も携帯メールも同じじゃないんですか?
たとえば「ここにこんな本が!」という感動をその場でそこにいない人に伝えることと
その本に関してその場にいる人に話しかけることは
反することではなく、どちらも、思ったらできることだと思うし
背表紙を写メして「この本見つけた、なう」とかってされることだけがイヤっていうのが私にはよくわからないな。
友達に「この本見つけたよ」と写メするのと何が違うの?
どっちもヤダからやめてくれっていうのなら
携帯も禁止になると思うんだけど。
でも、正直言って「禁止」って張り紙されちゃうことがもうなんかイヤだなぁ。
Alohazuki wrote: No title
あ、ゴメン。書いてる途中で返事が来てたみたい。
まあ、続きはお会いして時にでも…。
気流舎 wrote: No title
>Alohazukiさん
まぁ、Twitterの名を挙げるのも「なう禁止」も
象徴的に書いているまでで、上にも書いたけど
「人とか自然とかとはもっと直接に交流しましょうよ」
ってのが本意です。お会いしてお話しましょ〜。
その時はTwitterの魅力をぜひ教えてくださいな。
tu-ta wrote: そうだよね、こういう話も
やっぱり、会って、顔見ながらするのが一番だよね。
Toshiya the tribal wrote: No title
「日本語環境」っていうのは、日本語(母語)だけをOSにして動いている環境という意味ですね。ぼくの造語です。
普通、どこの国でも、まともな人なら、ネットにさわることは少なくとも英語までは環境化、身体化するのに、日本ではなかなか日本語以外にふれようとしないのが不思議。まあ、でもビートポートとか使いこなしているかな。
いっそみんなあのくらいの「つぶやき」なら英語でやればいいのに、と。そしたら、やるかなあ、英語能力の向上のために。
不自由な言語で真摯に、素直になるってのも「おだやかな」気持ちにつながる。
Twitterがダメだな、とおもうのは、文脈化する努力を欠いた安楽な感じが薄気味悪いだけで、やりたい人がやるのはとめません。ただ気流舍みたいな素敵なところ(入ったことはないけど、オーナーは知っているから)で、文脈化しない(文脈化、横断的な比較を必要としないムラのお仲間に向けての)書き方で脳内の情動が「垂れ流し」されちゃうのは、テクストとスペースに対するリスペクトが足りなくて嫌かも、というだけで、強制とかそういう気持ちはないですね。
まあ、電車のなかで化粧する女の子を見ていて恥ずかしい、という感性に似ているかもしれない。
Twitterだってテクストであることを、たとえばデリダやドゥルーズだったら否定しないでしょう。しかし、問題はその質と強度、かな。
のんびり、まったり、安楽に、というのが、実はそれこそ市場にセグメント化され、エンジニアリングと管理の効果でしかない、ということに無頓着な「日本語環境」は、いつもはそこで暮していても、一種の「気違い部落」(きだみのるの言葉)なので観察対象としてははたで見ていて面白いです。
ただ、大学では「レポートを携帯で書くな」「ブログやKタイ小説のようなやたら改行の多い文章はレポートでは不可」「レポート課題を教務課の掲示板の前で写メしてる奴はダメ」(関係ないコマのもの見るとか、手で打ったり書いたりの身体化が大事)・・・などと「強制」してるけど、オヤジ、旧人類、オールドタイプの反動ばかりとは思いません。
Twitterに膨大な行数を書き込むとかだったら、気流舍で書くのも乙かもしれない。
ここにコメントするのも同じです。
ザラッとした感触、おだやかな気持ちで寛容に生きていくためには、ザラザラしたノイズというか、スクラッチというか、クリックで「お約束」を攪乱ないし茶化したい気持ちがあって、コメントの仕方も含めて「実験」です。
それも気流舍とこのブログの磁場であって、そういうものは肯定したい。
ぼくはもはや人とはあまり会わない、話もしないし、なるべくコミュニケーションを絶って生きてますけど、非人称の恊働みたいなものに単なる「平等」や「共生」をこえた何かには期待したい。
Babylon東京では、だからなるべく外国人(力士?)のような目で生きてみる。
Babylonに戻ったら、今度こそ、顔を出します。新著の宣伝のときなど、イベントの相談をさせに行かせていただくかも。
ペロ wrote: No title
日替わり店主をしながら時々Twitterで実況してた私でございます
Twitterって話題にするほどたいしたものでもないし、そもそもただのたまたま時代の波に乗ってるだけのツールじゃないですかね。トンカチで人が殺せる、って怒るより、トンカチを危険じゃないように使おうよ。
「なう」ってつぶやくことは、自分を刻むことと同時に、刻んでさえも自分が居る場所で起こっている何かを多くの相手に分け与えたいがためにやってる人も居ますよ。実況とか。
Twitterくらい自由にサセテ~ 気流舎に行ったら人と話さないでTwitterってことはないと思うけど
もりもり wrote: No title
私が最後の「気流舎なう」になれた事を光栄に思います。
会う今も、会わない今も、たのしくてしかたがないよ!!!
気流舎 wrote: No title
>Toshiya the tribalさん
そうですね。日本語とか資本主義とか
人はさまざまなOSの上に生きていて、
それらを疑がわせないようにするのが
Babylonの仕事なのかと。
おそらく最大のOSは「この現実」で、
たとえばカスタネダの「世界を止める」というのは
そこを疑ってみるということだと思っています。
イベントやってください〜。
>ペロさん
この場合包丁やトンカチの例えが当てはまらないのは、
料理をする時も人を殺す時も「今ここ」でできるはずだから
この文脈ではどちらもOKなんですよ。
うまく使えばいいじゃん、というのはその通りですが
使っていることで失っているものが大きすぎる
(しかも取り返しがつかない)と思っています。
まぁ今度 Twitter カフェでもやってくださいな。笑
>もりもりさん
あなたのおかげですよ。
会わない今は今じゃないんだってば!
Saudade Books wrote: しつこいようですが、うちも禁止です
三浦半島にあるサウダージ・ブックスの本のサロンでは、ケータイ禁止です。「なう」ってまだよく知らないのですが、たぶんツイッターもあんまりできないとおもいます。
でも、禁止する主体は、じつはニンゲンじゃなくて、山なんですね。
要するに山があるので電波が届かないのです。お山の神様が、ケータイなんかいじくるのは「今」はやめとけ、とニンゲンどもの弛緩した現在に喝をいれるのです。目を開け、風を読め、土をなめろ、ほら、葉っぱがおしゃべりしてるぞってね。真実の知恵と法は、あーだこーだとやりあうニンゲンどもの幻想ではなく、自然のリアルにしかない、とぼくは思ってます。そこに気づくヒントになるような書物を、サウダージ・ブックスには陳列しています。
なにも仙人のような暮らしを実践・推奨しているわけではなく、都市文明的経済技術信仰との接続と切断のリズムを作るために努力をしてるってことです。現にこうして山のふもとの自宅ではネットにつながる環境にあってそれを使って仕事もしているわけだし。それでも、ネットからも本からも離れ、人付き合いからも離れ、たったひとり「砂の本」としての波のページを読む時間をなによりも大事にしたい。単独者として、海のむこうの物語を想いたい。
究極的には、本はいらないというのは大賛成。詳しくは書けないけれど、ぼくが本にかかわる活動をいまこつこつとやっているのは、南米ブラジルの野で出会った「本のない世界」への想いを自分にしっかりつなぎとめるため。
ぼくらの活動が特に「詩のことば」を大事にするのは、「詩のことば」は、ニンゲンの言語を通じて、「自然」と「本のない世界」が語りだす大切な契機だから。それは、無からの贈り物。本物の詩人の声は、かれらの背後にある無数の死者と精霊が旗を振って行進する道だとぼくは思っている。都会のデモにぼくは参加しないけど、そっちのデモでは大きく腕を振りたい。
最近、同世代の韓国のともだちからいいことを聞ました。わたしたち、メールのあとによく最近本で読んだことばとか、自分で作った詩を添えるのよ、って。「わたしたち」という言い方を額面通り受けとめるわけじゃないけど、いい話だなあ。
メールとかブログとかSNSとかツイッターでもなんでもいい、「なう」のかわりにいまこの瞬間、こころが出会った「ことば」をひとこと記しておくのはどうだろう。家族や友人や恋人や仕事仲間や愛人への、ちょっとしたプレゼントとして。道で拾った色あざやかな落葉、かたちのいいドングリのようなもの。本で読んだことば、自分で作った詩、夜の鳥の啼き声、人と交わした何気ない、しかしこころに残ることば、路上で小さなこどもが歌うコズミック・ソング。ぼくはこどものころからひとり言が多く、夕方になるとアサノは星としゃべってる、気持ち悪いってよくバカにされました。
それはともかく、そんな試みは、今すぐにでもできそうです。たとえば、こんなふうに。
2020年2月17日水曜日、13:14pm、ぼくは葉山にいて、あす気流舎に遊びに行こうかな、と思っている。ノートブックの液晶モニターのむこうにある窓に目を上げる。晴れるだろうか。「風が吹く、ゆえにわれあり。雨が降る、ゆえにわれあり」(管啓次郎の詩を勝手にアレンジ)。
tu-ta wrote: Saudade Booksさんのコメント
面白かったです。
そういえば、もう何年も前には、ぼくも本から気に入った言葉とか、何か思いついたひとこととか、メールやMLの投稿の最後につけてました。データはな~んにも残ってないですが。
また、やってみようかなぁと思いました。
でもね、ときどきは都会のデモにも参加してください(笑)
tu-ta
疲れたら休む
insiderivers wrote: No title
お久しぶりです。
中川です。
やはり目指す世界のビジョンが明確に違うのだな、と思いました。
僕は技術が存在する以上、「国家」の独占ではなく「民衆」の方が効率の良い情報伝達ツールを持つことについては、肯定的に考えているところがあります。もちろん相互監視システムとしての危険性もありますが、嫌だったらアクセスしなければいい話なので。。
「今ここ」でいい。
そのことには共感を覚えます。本当に。出きればそう生きたい。
それでも世の中は管理され囲い込まれている。
だから僕もtwitterを使っている、という側面があります。
twitter中毒はどうかと思いますが、
けれども、覆い隠される醜態や欺瞞や嘘を露わにしていくその過程で、一つの有益なツールになるのではないかと思っています。
このtwitterを巡る議論が、目指す社会のあり方やその作り方について語られるきっかけになればいいなと願います。
また、近日中に遊びに行きますね。
ちなみに、その人の目の前でその人が嫌がるようなことはしません(笑)。
気流舎 wrote: No title
>Saudade Booksさん
禁止する主体が山っていうのはいいですね。
法は自然のリアルにしかないというのもその通りだと思います。
そして自然が語りだす詩のことばが道であるなら
詩集は、ことばを集めた本の世界にあってとてつもなく
重要なもののように思えてきます。
人はことばによって世界を腑分けし続けてきたわけですが、
それでも詩やユーモアも忘れずにいたことに希望を感じます。
>中川さん
イランの例もあるのでそれはその通りだと思います。
たぶん話のレベル(オーダー)の違いで
民主主義の根幹に自由な交流があって
ここには twitter や携帯などのメディアの更新は有効だけれども、
自由な交流の根幹は直接のコミュニケーションのはずで
ここにはメディアは害として働くこともある
ということではないでしょうか。
あるいは
twitter で自由に交流できる世界を目指すのか、
そもそも twitter など必要としない世界を目指すのか
の違いと言ってもいいかもしれません。
いずれにせよ、いろいろ考える/感じる
きっかけになるといいなと思っています。
また遊びに来てください。
気流舎
「財布は荷物になるから持たない。」(お客さん)
insiderivers wrote: No title
お久しぶりです。
中川です。
やはり目指す世界のビジョンが明確に違うのだな、と思いました。
僕は技術が存在する以上、「国家」の独占ではなく「民衆」の方が効率の良い情報伝達ツールを持つことについては、肯定的に考えているところがあります。もちろん相互監視システムとしての危険性もありますが、嫌だったらアクセスしなければいい話なので。。
「今ここ」でいい。
そのことには共感を覚えます。本当に。出きればそう生きたい。
それでも世の中は管理され囲い込まれている。
だから僕もtwitterを使っている、という側面があります。
twitter中毒はどうかと思いますが、
けれども、覆い隠される醜態や欺瞞や嘘を露わにしていくその過程で、一つの有益なツールになるのではないかと思っています。
このtwitterを巡る議論が、目指す社会のあり方やその作り方について語られるきっかけになればいいなと願います。
また、近日中に遊びに行きますね。
ちなみに、その人の目の前でその人が嫌がるようなことはしません(笑)。
通りすがり wrote: No title
>Toshiya the tribalさん、
御高説たいへん興味深く拝見致しました。
一点だけ。
憂鬱なのでしたら、「家畜化するエクスモダン社会」にはもう戻らなくてよろしいのではないでしょうか。
行き先を選択しているのは御自分自身です。
toku3 wrote: No title
ダライ・ラマが来ても禁止ですかそうっすか
14世が「気流舎なう」・・・ダメっすか出入り禁止ですか
与太話はおいておいて 先日は中途退出しつれいしました
奈良さんライブ最後まで聞けずに残念でした
あの日は下北で呑んでて、かるくお茶したかっただけなんです
うっかり立ち寄ったらあんな濃い話してるとは。
無職中でフラフラしてる自分には毒がつよすぎます再就職できなくなりそうです嫁にもおこられます
、なんでまた遊びにいかせてもらいます。では。
Toshiya the tribal wrote: Reply
>中川さん
ぼくも民衆が能動的にメディアを使用することは否定しません。またこのようなメディアが現実の欺瞞をあばく可能性についても同意します。
問題は、そういう使用例が今のtwitter中毒者や、「営業」や「業界内痴話喧嘩」的に使っている人たちのつぶやきからは見えないなあ、ということです。
>通りすがりさん
そこらの宇野ボットみたいなコト言わないでください(笑)。こっちが赤面しそうです。いえいえ「家畜化するエクスモダン社会」は参与観察の対象にはなりますし、カナダの大学で教えるときのネタにはなります。
寿司や蕎麦、きちんとした有機野菜や新鮮な魚などで料理する醍醐味もありますし、ネット見てると憂鬱になりますが、つい食と温泉と給料に引っかかってBabylonに釣られている始末です。
ふみあし wrote: No title
どうも。自分は山歩きも街歩きも好きです。でも、まだネット世界での自分の好きな歩き方がよくわからない。
山歩きをするときは、前に延びた一本道を黙々と歩く。
そうすると、まわりの自然に自分が抱かれてくる感じがしてくるのだけど、
そこでわかるのは、自分と自然がはっきりと対峙するからこそ、それと一体化できるんだなということ。
「対峙」するというは、そこに距離があることのしるしなんだけど、
逆に距離があるこらこそ、自然と自分との間に自由な空間が開かれ、
そこに色々な想いやイメージが浮かび上がってくる。
そういうものは全て自然の方が自分のうちに呼び込んでくれたものなんだと、勝手に思ってる。
一方街歩きをするときは、対照的にどんどん脇道にそれていく。
そうすると、そこで生活していたり働いている人たちが気づかないような、
その界隈独特の佇まいというか表情を味わうことができる。
そういうのって、そこで生活する人々の想いやふるまいと、
その場所が元々持っていた特徴とがいつの間にか混ざり合ってできた何かなんだよね。
多分それが、人間と自然が絶えず相互作用してることのしるしなのであり、
人間や社会を扱う学問がクールな視線で分析しようとするものの正体なんだと、
勝手に思ってる。
いずれにせよ、歩いていると自分が世界にとって徹底的によそ者であることが実感させられ、
しかもよそ者であるからこそ、逆にこの世界が凄くいとおしくなって、
そこからのいろいろな呼びかけに耳をそば立てたり、
人と自然が織りなす唯一無二の絡み合いに目を止めたくなる。
ところでSaudade Booksさんが、
「本物の詩人の声は、かれらの背後にある無数の死者と精霊が旗を振って行進する道だ」
と述べていたけれども、これは何となくわかる。
街が持つ佇まいというのは、忘れ去られた死者の痕跡の蓄積のことであり、
山を歩くと浮かんでくる様々な想いというのは、その忘れ去られた死者たちの息吹なんだろうな。
そして精霊というのは、そういう死者たちが世界の中で消え去らないように守り、
ときには私たちにその息吹を伝えてくれるものなのかも知れない。
いずれにせよネットの世界が辛いのは、今見たような、
よそ者としての歩き方を許してくれないからなんですよね。
ネットというのはまさにヴァーチャルな世界として、
或る程度世界や自分自身に対して「距離」を与えてくれる筈のものなのだから、
それをうまく生かして、ネット上でコミュニケーションをしながらもよそ者として歩く仕方がわかれば、
まぁ自分にとってもネットの世界が楽しくなるんでしょうけど。
今日、考えたこと pinged: 「気流舎なう。禁止!」
気流舎の店主、面白いのを書いてくれた。
==
BE HERE なう。 ...and Fuck Twitter!
(あるいはある瞑想者のつぶやき)
http://www.kiryuusha.com/blosxom.cgi/computer/100213a.html
==
この写真がなかなかいいので、上記クリックしてみ...